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- 2022.03.11
「20代男女の壮絶な対立」を顕にした韓国大統領選。二者択一の極端志向から脱却する道を考える【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(30)
3:「平均値でしかない統計数字」で論破した気になってはいけない
こういう議論になる時にいつも不毛だなと思うのは、「改革を求める側」が、「範囲が大きすぎる平均値的数字」を持ち出してきて、「だからこそ自分たちは相手に一切配慮をする必要はないのだ」という結論に引きこもってしまうことです。
例えば男女の賃金格差だとか、政治家の男女比だとか、そういうのをひっくるめた「ジェンダーギャップ指数」とかそういうものですね。
しかしそうした「平均値的な統計数字」は、それをきっかけに細かく実態を見ていってお互い納得できる解決策を練っていく方向に使われれば有意義ですが、単に「敵側を全否定して殴るためのネタ」として使われると果てしなく無意味な罵り合いしか生みません。
なぜなら「女性全体の平均の数字」を出すことは、必ずしもそれを主張している「比較的恵まれた環境の女性」の不遇を意味しないからです。
そして、「平均値を大きく押し下げている恵まれていない立場の女性」の環境を引き上げるには、えてして学歴と資本に守られた都会の上澄み特権階層以外にも「マトモな配慮」が行き渡る文化的基盤を守る必要があり、その基盤を維持するためには、たいてい「2年間の兵役をこなした人への敬意と感謝」的な感情的な義理の連鎖を利用することが不可避に必要だからです。
この図は私の過去の著書で使ったものですが、「社会に課題が共有されるまで(上図で言えば“滑走路段階”)」は確かに「黙らされないぞ!」という非妥協的な糾弾姿勢が大事ですが、解決の必要性の合意が取れてきたら(上図の”飛行段階”)、そこから先は必要な態度が変わってきます。
「飛行段階」に入れば社会の逆側にいる人たちの合意と納得と具体的な制度設計を引き出していく必要が出てくるわけですが、そこでも「敵側全否定のナルシシズム」で糾弾を続けていると具体的な細部の話が積んでいけません。そのうち強烈な反撃を受けて「理想そのものを全否定される」情勢にまでなる危険性も出てくる。
具体的には、「統計」は他人を殴る道具でなく「具体的な提案をする」道具にするべきなんですね。
「あなたの会社は駄目ですね」ではなく「あなたの会社のこの指標は他社より低い傾向にありますが、その理由は何でしょうか?改善のためにできることはありますか?」という具体的な数字と具体的な対策に話を集中するように持っていけば、感情的対立を避けて「我々感」を維持したまま具体的な解決策を積むことができる。
数々の指標が一緒くたになっている問題が多数指摘されているジェンダーギャップ指数のような数字をお経みたいに唱えるのをやめて、あと三歩ぐらいブレイクダウンした数字を使えば具体的な課題が見えてくる。
例えば日本の場合、単に政治家の男女比…といった数字を出すのはフェアではありません。世界一の高齢社会の日本では高齢政治家の割合が高いことは不可避であって、上の世代にはそもそも政治家になる人材プールに女性が少ないので差が出るのは当然だからです。
そういうアンフェアな批判のしかたを放置していると、「社会の逆側」に“恨みのエネルギー”が溜まってきていずれ大反撃を受けるでしょう。
しかし、例えば「20〜30代の新人政治家の男女比」という数字を出して検討するなら、一気にフェアな議論が可能になります。それぐらいまで具体化した数字を元に考えれば、実際に意味のある対策を見いだせる可能性は高まります。
そういう「逆側の人との共有基盤」を作っていってはじめて、家事の分担がどうだという話から、女性芸能人に権力を使って性行為を迫る男を排除するといった問題まで、スムーズに津々浦々で解決していくことが可能になります。
最近出した私の著書で、この10年で150万円平均年収を引き上げることができたクライアント企業の話を書いた時に、担当編集者に「そこまで大きな改革が実現したのだから、守旧派を打ち破る大きなドラマがあったでしょう。それについて書いて下さい」と言われて気づいたのですが、最近は「“敵”を論破して排除すれば劇的に物事が改善する」と思い込みすぎる風潮があるのではないでしょうか。
「平均年収を大きく引き上げる」というのは、単に「皆で頑張る」といったレベルを超えて、かなり大きなビジネスモデルの転換が必要です。それは敵を論破して押し通せば可能になるようなものではありません。
あらゆる立場の人の気持ちを吸い上げていって、その「感情的共有基盤」の上で、毎日生起するいくつもの課題を一個ずつ丁寧に潰していくことで、気づいたら一つにまとまれて実現していた…というようなプロセスが必要です。
「アメリカ型の反差別運動」は、出会い頭に踏み絵を迫ってすぐに「敵と味方」を分けてしまうので、ハイコンテクストかつ高頻度で更新される「反差別のマナー」的なものだけが強烈に押し売りされますが、公教育の学区ごとに予算が全然違う問題みたいな根本課題は放置されたままになってしまいがちになる。
社会の喫緊の課題は全部ジェンダーや各種性的マイノリティなどの問題ではありません。経済格差の問題もあるし、欧米文明から圧迫される社会の文化的連続性みたいなものを重視したい人もいるでしょう。
それぞれの人が自分の「ベタな正義」を持っているので、「自分のベタな正義」だけを全面化して他人の「ベタな正義」を否定し始めるとどんどん膠着状態になってしまう。
それぞれの「ベタな正義」を否定せずに、「相手のベタな正義が存在している理由」までさかのぼって統合していく「メタな正義」を結集軸に作っていくことが必要なのです。
4:「白vs黒」を超える「黄色の視点」を掲げよう
ウェブ記事でこういう論調の話を書くと、
…みたいな「最近のアメリカ型リベラルの宗教教義」を持って殴りかかってくる人がいます。
しかし、そうやってアメリカは「どこまでも非妥協的に糾弾だけをすればいい」方式で社会運営をした結果、社会の半分が強烈にトランプ氏を支持し、その「理想」ごと全部否定しにかかってくるような情勢になってしまっているじゃないですか。
さらにはそういう非妥協的な「アメリカ的理想の押し売り」が、人類社会の逆側で中国やアフガンやロシアなどの暴走的な統治を生み出しており、結果としてその「欧米的理想の中で生きられる人数」がむしろどんどん減っていってしまうことになる。
「あなたは“白人側”の人間なのだから、“黒人側”の人間に対して常に膝を屈して許しをこう姿勢が必要なのだ」とか言われると、日本人の私は「俺は白人でも黒人でもねーわい!」という気持ちになります。
そういうあらゆる課題を「純粋な加害者と純粋な被害者」に分けて糾弾する姿勢こそが、解決から遠ざけてしまう元凶なのだとそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。
オバマ元大統領が、「ネットで他人に石を投げて批判しているだけでは社会は変わらない」と昨今のアメリカのリベラル派の純粋主義を批判したのが話題になっていたように、欧米でも良識派の知識人ならそういうことはわかっているはずですが、じゃあ強権で黙らせるのがいいのか?と言われると難しい袋小路に陥ってしまっているわけです。
欧米由来の「白VS黒」の果てしなく非妥協的な論争を超える「東アジア的中庸の徳」=「いわば“黄色”からの視点」こそが、今の人類社会が切実に必要としている視点だと私は考えています。
今回の選挙において韓国国民が、「非妥協的に糾弾しまくるアメリカ型リベラル」の流れから脱却するような決断を総体としてしたことは、好意的に見ればその「黄色からの解決」を目指す一環だと考えられるのかもしれません。
韓国は日本人から見ると極端なことをしがちで、一度やりすぎなぐらい右にガツンとハンドルを切って無理やり進んでみては、また混乱しては左にガツンと切って…のジグザグ走行で変わっていく流れがあるのかもしれません。
一方で最近の日本では、『鬼滅の刃』の大ヒットに見られるように、単に「昭和的な過去の延長でもなく、グローバルなやり方を丸呑みにする平成風でもなく、自分たちが持つ本当の価値をグローバルな仕組みと自然に溶け合わせる令和のビジネスモデル」が見えてきたりもしています。
(鬼滅のヒットを支えたビジネス面の工夫がいかに新しいかについては、この記事では字数的に書ききれないのでご興味があればこちらの記事をお読みください)
「時に暴走しながらジグザグ走行で変わっていく韓国」と、「積み上げ式でやっと自分たちなりの解決が見えてきた日本」と、それぞれなりに「アメリカ型の糾弾先行な改革志向」を乗り越える道を模索しているのだと理解すると良いのではないでしょうか。
そうやって「それぞれ自分たちに合ったやり方があるのだ」という理解ができるようにならないと、日韓関係は不毛な罵り合いに陥りがちですからね。
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